偉大なるボカン史

Last Update : 2006/5/3

黒歴史があるならば表の歴史も扱うべきである。というわけで、このページでは、ボカンシリーズにおける栄光の歴史を集めてみました。日本のアニメ史に偉大なる足跡を残したボカンシリーズの歴史を、ここに記録します。


*タイムボカンは日本で初めて、CGを取り入れたアニメである。当時実用化されたばかりの『スキャニメイト』という技術を使って、画像をコンピュータで加工処理しているのである。

1974年のある日、タツノコプロに東洋現像所(現イマジカ)から、「スキャニメイトと呼ばれる新技術をテレビアニメにも利用してみませんか?」とセールスが来た。とりあえずは実験という名目で使用してもらっていいと言われ、そして作り出された映像が、あの御馴染みのタイムボカンのタイムトラベルシーンであった。この時作られた映像は『タンマー大混戦』のパイロットフィルムに使われ、それが後に、タイムボカンの本放映においても使用されることになった。

 

 

*イッパツマンは悪がシリーズ途中で勝ち、正義側で新メカ登場。という流れを作ったアニメ。
(1年を通して初という事です)
(1年と言うのを無くせば、厳密には初ではありませんが…)
(初代ゲッターロボとかマジンガーZなど、しかしこれは次の新番組の布石と位置付けるならば、やはりイッパツマンが初という事になると思います)
(この手法は、勇者シリーズ、スーパー戦隊物等に現在でも脈々と引き継がれている)
(まあ1代目メカ、2代目メカの合体というのはイッパツマンでは見られなかった訳ですが…)(情報提供:とりすがさん)

 (追記) 円谷プロ制作のジャンボーグAという特撮作品において、中盤でジャンボーグAが破壊されて新たにジャンボーグ9が登場しています。(情報提供:なおさん)

 

*現在を代表するアニメ会社「J.C.STAFF」は、元々、タツノコプロのスタッフがその基礎を作った会社である。(情報提供:とりすがさん)

 

 

*大河原さんと富野さんとの出会いは、ボカンシリーズがきっかけ。今や、世界のポケモンの総監督、湯山さんも、ボカンシリーズ出身。映画、イノセンスの押井さんもボカンシリーズ出身。(情報提供:とりすがさん)

 

 

*押井守氏

ボカンシリーズほぼ全シリーズにて主に演出を担当。 ボカンシリーズ後期では丸輪零というペンネームで参加。 ちなみにゼンダマン後期より登場したコクピットメカ オシイ星人は氏の楽屋ネタから産まれたキャラ。 オシイ星人の姿、形も氏から引用したと思われる。 オタスケマンでは、エンディングのお囃子としても登場。

現在では、演出家、監督、小説家など、幅広い活躍をしておられます。

氏の主な作品 劇場用アニメ『うる星やつら オンリー・ユー』(脚色・監督/1983年公開) 『うる星やつら ビューティフル・ドリーマー』(脚本・監督/1984年公開) 『機動警察パトレイバー』(監督/1989年公開) 『機動警察パトレイバー2 the movie』(監督/1993年公開)。 1995年に公開された『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』(監督)は、アメリカやイギリスでも公開され、 翌96年には米ビルボード誌でセルビデオチャートNo.1を獲得する世界的話題作となった。 そして「攻殻機動隊」を見ていたウォシャウスキー兄弟両監督が、 「攻殻機動隊」の多大なる影響を受け、後に、米映画「マトリックス」を世に送り出す。 「攻殻機動隊」から引用したシーンが「マトリックス」には数々見られるのである。

近年では、新作『イノセンス』がカンヌ映画祭に出品されるという、 アニメ映画では、快挙というべき偉業を成し遂げたのである。

そんな氏の基盤になっているのはボカンシリーズである。(と思う。あくまで思う)(情報提供:とりすがさん)

 

 

*大河原邦男氏

科学戦隊ガッチャマンからメカデザイナーとしてタツノコ作品に参加。 後に、タイムボカンのメカデザイナー補佐として参加。 更に後、ヤッターマンからイタダキマンまでメカデザイナーとして参加。 本来、背景担当であり、メカデザインとは縁のない部署にいた訳だが、 氏曰く、美術監督でもある上司の中村光毅氏の命令で「キミ、やってみないか?」発言がメカデザイナーとしての出発点。 ちなみに職業として「メカデザイナー」を名乗り始めたのは、氏が最初だと言う話がある。 そして、ヤッターマンにて富野 喜幸氏(後の富野由悠季氏、外注で演出を手掛ける)と運命的な出会いを果たす。

数年後、富野氏と一緒にダイターン3を世に送り出す。 裏話的な話をすると、実はザンボット3(大河原氏の参加は無し)よりもダイターン3の方が、 先にアニメ化の話があったのだが、スポンサーが潰れてしまい、ザンボット3の方が先に放映されてしまった経歴がある。 が、それがきっかけで、ダイターン3のメカデザインに時間を十分に掛けられたらしい。 本来ダイターン3に登場予定であったメカの数々は、ダイターン3の次の新番組まで温存された訳である。 その新番組こそ、現在でも続編が作られ、アニメ界の文化遺産とまで言われている作品、 『機動戦士ガンダム』である。 ちなみに温存されたメカデザインの代表作はあの「ハロ」「ホワイトベース」である。 後、氏はタツノコ入社以前、潟Iンワード樫山で、紳士服のデザインをしていた過去もあり、 その経験から、ジオン軍のMSが誕生したという話もある。

その後の氏のご活躍は言うに及ばず。

そして、現在では、メカデザイナーといえば大河原氏、大河原氏といえばメカデザイナー、と言われるまでになり、 現在でも第一線の第一線、メカデザイナーの中核として、現役でご活躍されている訳である。

ここで特質すべき点は、『機動戦士ガンダム』の制作スタッフのメンバーには、 ボカンシリーズお馴染みの美術、中村光毅氏、脚本、山本優氏、両氏も名前も見ることができ、 両氏共々、現在でも現役でご活躍である。

が、もし、ボカンシリーズが無ければ、ガンダムシリーズは産まれなかったかもしれない…と予想。あくまで、予想。(情報提供:とりすがさん)

 

 

*「ポールのミラクル大作戦」(これもタツノコプロですね)でもありましたが、「メインキャラが行方不明となって中盤で復活する」というのはタイムボカンが初めてではないでしょうか?(情報提供:m、kさん)

 

 

*手塚治虫氏

言わずと知れた、漫画の神様、 アニメ製作会社、株式会社虫プロダクション(旧虫プロ) の代表取締役でもある。

タツノコプロとの関係。

笹川ひろし氏の漫画の師匠でもある。 虫プロで雇えなかった、人材をタツノコプロが引き取ったり、 虫プロからも沢山の人材を派遣して貰っている。(制作協力という形)。(情報提供:とりすがさん)

 

 

*秋本治氏

漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」作者。

アニメーターを志し、虫プロダクションの採用試験を受けるも、不合格。 しかし、虫プロダクションの紹介でタツノコプロに入社経験有り。2年間動画を勤めた後、退社。その後しばらくは投稿漫画家生活を送る。

1976年、山上たつひこの名前をもじった「山止たつひこ」名義で代表作となる「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の読みきりを「週刊少年ジャンプ」に発表。現在に至る。

1985年にアニメ「こちら葛飾区亀有公園前派出所」(集英社イベント用作品)をタツノコプロが手掛けている。

尚、ボカンシリーズには携わっていない。(情報提供:とりすがさん)

 

 

*富野由悠季氏

ご存知、ガンダムの産みの親。 タツノコ作品では、みなしごハッチ、人造人間キャシャーンに携わる。 笹川ひろし氏とは虫プロ内で同期。 そこから考えれば、大河原氏氏との出会いも必然的だったと思える。 大河原氏との本格的な出会いは、ヤッターマンである。(情報提供:とりすがさん)

 

 

*2003年5月、国際的に活躍する現代アーティスト村上隆氏(「たけしの誰でもピカソ」で審査員を務めていた人)の少女像が、ニューヨークのクリスティーズで約6,600万円で落札されるというニュースが流れました。
このニュースで村上氏の知名度が上がったとともに、日本のサブカルチャーにも意外な高値がつくという点が世間の注目を集めました。

その村上氏は、やはり日本のアニメに大きな影響を受けたと語っておられるのですが、特に強調されていたのが、何とボカンシリーズのドクロの噴煙だったのです。あのような独特な形態をもつキャラクターを自由に描くというのが日本独自の文化であり、非常に日本的な作風であると語っておられます。実際に自身の作品(恐らくイラストだと思われます)にも、そのドクロの噴煙を使っておられるようです。

というわけで、現代アートにも影響を与えていたボカンシリーズなのでありました。(情報提供:クリフさん)

 

 

*中村光毅氏

東映動画を経てにタツノコプロダクションに入社。 宇宙エースから背景を担当。 マッハGoGoGoで、美術とともにメカニックデザインも兼任。 科学忍者隊ガッチャマンで大河原氏への運命の一言「キミ、やってみないか?」を発言。 タイムボカンでは、メカニックデザインを担当、 その後のボカンシリーズでは、部下の大河原氏に受け継がれる。

1976年にタツノコプロダクションを退社。大河原邦男氏とともにデザインオフィス・メカマンを設立。 その直後、機動戦士ガンダムの制作に携わる。 ガンダムでは、あの有名なシーンのコロニーと地球の衝突場面を描いた事で有名。 1984年には宮崎駿監督の下、風の谷のナウシカで美術監督を務める。 その後のジブリ作品の世界観の影響を与えた。

そして現在では現役で活躍している傍ら。 後世の育成にも力を注いでおられます。(情報提供:とりすがさん)

 

 

*笹川ひろし氏

手塚治虫のアシスタント(本格的アシスタント第1号)を経て、「鉄腕ベビー」で漫画家デビュー。 その後、虫プロのテレビアニメ『鉄腕アトム』の絵コンテを2本描いたことでアニメの魅力に取り憑かれ、 当時交友関係のあった吉田竜夫にアニメ製作の話を持ちかけた。当時のタツノコプロは吉田兄弟で経営する漫画スタジオだったが、 同時期にタツノコプロへ東映動画からテレビアニメを共同制作する企画が持ち込まれ、共同制作の話は流れたものの、 吉田竜夫はタツノコプロ単独でアニメ制作へ乗り出す。笹川ひろしは吉田のアシスタントだった原征太郎と2人で東映動画でアニメーターの養成教育を受け、 1963年10月、タツノコプロ創立、演出スタッフとして吉田竜夫を支えた。

その後、タイムボカンシリーズを立ち上げる。 尚、タイムボカンシリーズに登場する「ささやきレポーター」は笹川ひろしがモデルである。

1979年9月にタツノコプロを退社。 古くからの同郷の友人で絵本作家の平田昭吾の誘いで、西崎義展の東京動画へと移籍。個人事務所の笹川事務所も設ける。 タツノコプロ退社後も引き続きタイムボカンシリーズを担当するとともに、東京動画はシンエイ動画の下請けをすることとなり、 『忍者ハットリくん』を監督した。その後、1983年に東京動画が解散し、西崎義展との契約が終了して以降も、 シンエイ動画での藤子不二雄作品が仕事の中心となった。

1990年からはアニメーション21の立ち上げから参加。アニメーション21はテレビ朝日で『ドラえもん』の初代プロデューサーを務め、 その後も、「お〜い竜馬」「ポコニャン」等のアニメに携わる。 しかし、バブル崩壊の影響もあり、アニメーション21は解散。 1994年から顧問としてタツノコプロへ復帰した。OVA『タイムボカン王道復古』に監修として参加したのがきっかけだった。尚、ドラえもん好きに言わせると、「笹川ひろし監督時代の作品が一番良作だった」との見解。

現在タツノコ企画室ディレクター。(情報提供:とりすがさん)

 

 

 

*石川光久氏

大学卒業後、竜の子プロダクションに入社。 タツノコでは、未来警察ウラシマン、赤い光弾ジリオンに携わる。 尚、氏はボカンシリーズには携わっていないのだが、 巷ではボカンシリーズの続編だったかもしれないと言われる作品、スターザンスSの製作には携わる。

その後、同社より独立し有限会社アイジータツノコを設立。 その後、株式会社イングを設立。1993年、有限会社アイジータツノコから有限会社プロダクション・アイジーに社名変更。 更にその後、資本増資し株式会社に。 2000年、合併に至る。 現在の会社名はProduction I.Gである。Production I.G.,LLC(米国)の代表取締役を兼務されている。

Production I.Gの代表作でもある、「攻殻機動隊」はそのクォリティの高い映像は、世界中に、日本アニメと、 その制作会社であるプロダクション I.Gの名前を知らしめた。 映画「キル・ビル」では、本作に触発されたタランティーノ監督が自ら石川社長の元に足を運び、アニメ・パートの制作を依頼したことは、業界内では有名である。 又、多くのアニメ制作会社が制作費削減のために海外の下請業者に仕事を出す中で、 「人こそが武器」と考える同社は制作の全てを自社内でまかない、続編『イノセンス』でも、その実力をいかんなく見せつけた。

Production I.Gは押井守監督作品などの高品質な劇場アニメに定評があり、世界最高のアニメーション技術者集団との呼び声も高い。 また傘下のXEBEC(ジーベック)で制作された作品は人気も高く、作画等の技術面においても業界内の評価が高い。 又、傘下である、ビィートレイン (Bee Train) はタツノコプロ出身の真下耕一が社長を務める会社である。 更にP.A. WORKSも傘下にある。(情報提供:とりすがさん)

 

 

*西久保瑞穂氏

大学卒業後、プロデューサーを志望し、研修生としてタツノコプロへ入社。 その後、同期の押井守氏、真下耕一氏、うえだひでひと氏と「タツノコ四天王」と呼ばれた。 1979年に退社。マッドハウスや東京ムービーでの仕事で出崎統(笹川ひろし氏とは虫プロ内で同期)に師事した。

現在はProduction I.G副社長。

尚、押井守氏の下で演出を担当する際には本名の西久保利彦を用いている。(情報提供:とりすがさん)

 

 

*真下耕一氏

シナリオ家志望であった氏は、演出助手志望でタツノコプロへ入社する。 3ヶ月後には演出を担当。 タツノコプロ時代は、同期の押井守氏、西久保瑞穂氏、うえだひでひと氏と「タツノコ四天王」の異名を取った。

1984年に退社。その後監督としての地位を築き上げる。 1997年6月アニメーション制作会社ビィートレインを立ち上げる。

現在、アニメーション制作会社Bee Train、代表取締役。 社長業と両立し、監督もやられている。 現在、「ツバサクロニクル」の監督。

宮田知行氏、 外人ハウス(安いアパート)に住み、ヒッピー、路上のアクセサリー売りをしていたのだが、 外人ハウスでのお隣さんが、たまたま、天野喜孝氏(この頃既にボカンシリーズで活躍中だったが、何故か、外人ハウスに住んでいた)で、 天野氏の勧めでタツノコプロに入社。 宮田氏の事を、天野氏曰く、飲み仲間で楽しい人だからタツノコに誘った。との事。 その人柄が受け、タツノコスタッフにもすぐ打ち解けたらしい。 尚、今では考えられない話だが、宮田氏自身、アニメに関して何も知識、経験が無く入社してしまった事は前代未聞である。

しかし、何故かその手腕はタツノコプロで発揮され、ボカンシリーズでは主に企画を担当。 トンズラーという名前の産みの親。 又、営業も担当していた時期もあり、営業面に関して類稀なる才能を発揮した。

その後タツノコプロ企画文芸部、キティフィルムプロデューサーを経て、 1986年に株式会社ジェー・シー・スタッフを設立した。 現在は、J.C.STAFF取締役会長である。社名は「ジャパン・クリエイティブ・スタッフ」の略である。 J.C.STAFFの作画等の技術面において業界内の評価が高い。 XEBEC(ジーベック)とその技術の高さを二分する程である。(情報提供:とりすがさん)

 

 

*ヤッターマンで産まれた名ゼリフ

ボヤッキーがスイッチなどを押す時必ず言うセリフ。

「ポチッとな」

現在でもアニメ等にこのセリフは使われている。(情報提供:とりすがさん)

 

 

*今川泰宏氏

アニメーターを志し、タツノコプロ系の新人アニメーター養成機関、タツノコアニメ研究所で2年間の研修を経験、 しかしアニメーターの適性がないと自ら判断。演出家への転身を志望。 これは、隣に座っていたアニメーター板野一郎の絵(後のマクロスにおける板野サーカスと呼ばれる演出で注目を集めた張本人)を見たためだという。 基本的にアニメの演出と監督が本業である今川だが、ごくまれに作画でクレジットされる事があるのは、この研修の経験があるからである。 そして偶然出会ったアニメ演出家笹川ひろしに直訴して、笹川ひろし事務所へ参加。その直後、笹川ひろしが演出を務めた 手塚治虫の24時間テレビのスペシャルアニメ『ブレーメン4 ―地獄の中の天使―』(1981年)の演出補佐としてデビュー。 とされているが、ゼンダマン、オタスケマンにおけるオマケキャラ「家具屋の一人息子の今川君」は彼であるので、 ゼンダマン、オタスケマンで、何らかの手伝いをしていた可能性がある。 又、ヤットデタマンが彼のデビューでは無いか?という話もある。

今川泰宏が頭角を現したのは『聖戦士ダンバイン』(1983年)。劇中後半の37話「ハイパー・ジェリル」で、主人公達の搭乗する巨大ロボットが更に巨大化して暴走するハイパー化現象という演出が登場して話題となったが、この表現を発想をしたのは、その回の絵コンテと演出を担当した今川だと言われている。

その後色々なアニメーションを手掛け、経験を積み、 1987年に料理対決アニメ『ミスター味っ子』の監督に抜擢。これが監督デビューとなる。試食した審査員があまりの美味さに巨大化したり変身したり、 或いは目から光線を放ったりと豪放で奇天烈な表現を繰り広げ、アニメファンの間で熱狂的な支持を受けた。 一般人気も高く、当初半年の放送予定が延長を重ねて、2年間の長期シリーズとなった。

1994年、『機動戦士ガンダム』の外伝的作品『機動武闘伝Gガンダム』の総監督を勤めるが、 本作は既存のガンダムシリーズのイメージを根底から覆すような設定と表現が多々あり、当初は旧来のガンダムファンなどから糾弾にあっていたが、 これまで同様、派手で仰々しい演出が評価され人気作となった。 が、やはりガンダムファンの間では賛否両論。

しかし、ファン曰く「燃えるアニメを作らせれば天下一品」と評価される人気監督である。

 

 

*湯山邦彦氏

1978年「銀河鉄道999」で演出家としてデビュー。1980年「銀河鉄道999ガラスのクレア」が初監督作品。ボカンシリーズではゼンダマン、オタスケマン、ヤットデタマンにおいて演出を手掛ける。その後、魔法のプリンセスミンキーモモ(監督)アニメ三銃士(監督) 等の作品を手掛け所謂、「アニメファンが熱狂する作品」を多く作ってきた。

そして彼の手掛けた作品の中で最も有名な作品は、言わずと知れたあの作品「ポケットモンスター」(総監督)である。今や世界の子供たちが見ているアニメである。その手腕は北野武監督も認める所で、北野監督曰く「金熊賞、取った時、向こうのテレビでさ、ポケモンやってるんだよな。後結構俺さ、取材とかで色々な海外行くんだけどさ、そこでもポケモンやってんの。この占拠率は凄いよね、それを考えて見れば、俺や黒澤さん(黒澤明監督の意)より凄い事やっちゃってるんだよな」と言わしめる程である。又、映画においてもあのスターウォーズエピソード1、2、3。ロードオブ・ザ・リングシリーズ、ハリーポッターシリーズに並ぶ(あくまで国内)興行利益を上げている。

そんな作品「ポケットモンスター」(アニメ版)を軸として考察

>敵キャラが毎回同じ
どこかで見かけた3悪特集
「ポケットモンスター」 <3悪度、100パーセント>を参照

>お約束
ロケット団には登場の口上がある。ロケット団のメカは、どんなに優秀な兵器や作戦を考え出そうとも(結構低予算)必ず爆発する運命にあった。そして敗北した後に、毎週遠くに飛ばされる。

>ワンパターン
主人公達が、ポケモンの大会に出る為に、予選とも言えるバッチ集めをする為、各地を旅をする。各地で様々な人達と出会い、毎回ロケット団に何らかの攻撃を受ける。その事により出会った人達との交流を深めていく。これが毎週続くのだが、バッチが集まり、ポケモン大会出場においては、作風が変わり、パターン崩しが新鮮に感じられたのである。

その視聴者を飽きさせない演出こそが、2008年現在11年目に入る(途中製作中止が数ヶ月あるのだが‥)人気作品の秘密と言える訳である。

 

*戸部 敦夫さん

母親が小原乃梨子さんで、『きらめきマン』二十二話の作監を担当している。


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